大堀相馬焼の歴史


江戸時代の元禄年から約300年続く大堀相馬焼は、福島県双葉郡浪江町大字大堀一円で生産される焼物の総称です。旧藩政時代には相馬焼と呼んでいましたが、国の伝統的工芸品指定以後は、産地名である「大堀」の名を入れた大堀相馬焼として広く知られています。
元禄年間に中村半士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのがはじまり。中村藩は相馬野馬追の伝統を有し、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれました。中村城下の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は民窯として長く親しまれててきたそうです。





 

相馬藩では、これを藩の特産物にしようと産地に瀬戸役所を設置して、資金の援助や原材料の確保など保護育成に努めました。これにより江戸時代末期には窯元も100戸を超えるほどの発展を遂げました。
1853年には、益子焼の起こりとともに、職人数名が技術指導に出かけ、技術を伝達してきました。結果的に益子焼・笠間焼をはじめとするの他県の産地のルーツとなりました。
明治期から廃藩置県により藩の援助がなくなったことに加え、交通の発達による他産地との競合激化、さらには戦争による大きな打撃と、太平洋戦争の終結時まで大堀相馬焼は冬の時代を迎えます。





 

差別化を図ろうとした窯元は知恵を絞りました。この努力が現在の大堀相馬焼の「青ひび」「二重焼」という個性を生み出します。そして、アメリカへの輸出で産地は強力に立ち上がりました。二重の湯呑み「Made in Japan」の刻印をして輸出したことで一大ブームに。アメリカでは「アイディアカップ」、「ダブルカップ」という名称で愛用されました。
2011年、東日本大震災により窯元全てが強制退去を余儀なくされます。現在は福島、二本松、郡山、南相馬、会津、愛知、大分など県内外に再建しています。
冬の時代を乗り越え復活させたように、今、新たに動き出しています。

大堀相馬焼の商品